表層にある感情と
目の前の現実からインプットされた外殻情報と上手く付き合う
僕は聖人でも仏陀でもないので
怒るし、悲しむし、落胆もするし、
目の前の現実に打ちのめされたりします。
自分が望んだ現実が目の前に現れる!とは言っても、
コレジャナイ感満載のことが起こるのが「生きてる」証拠でもある。
それすら望んでるといえば、それまでだけど。
かといって達観して向き合えるほど修行は終わってないので、
怒るし落胆するし、悪態もつくのです。さすがに悪態を人前で
ぶちまけることは少なくなりましたが、独り言が増えた。
感情と現実から受け取った情報は、「自分」を構成する
外側にある厚い層のようなもの。
その層のおかげで「気付き」もあるので無駄なもの
ではないのですが、上手く付き合う必要があると思うわけです。
表層の感情は自分であって自分でないと考える
前にトランス状態になった時に
100パーセント愛の状態というのを体験したことがあります。
目に入るものがすべて愛おしいと感じてしまう状態。
多幸感で目いっぱいなんですが、
四六時中そんな状態だったら社会生活は送れない
眼前の現実と「愛の塊である自分」との間にある緩衝地帯というか
クッションの役目として、表層の感情や知識や知性がある。
毎朝の瞑想で降りてくる言葉は
「愛の塊である自分」から湧き上がってくるもの。
表層の感情でゴチャゴチャした層を瞑想(とハペ)に
よって落ち着かせると、メッセージが送られてくる。
それまでの怒りや落胆は自分であって自分ではない。
確かに感情は自分の一部なのだけど、感情からの衝動だけで生きていたら
自分は何のために生きてるのか分からなくなる。
のみならず、自分は何者なのか?分からなくなる。
大丈夫だから肩の力抜きなさい
これが最近湧き上がってきた言葉。
結局すべて大丈夫なようにできている。
「愛の塊である自分」になった時は当たり前の感覚なのだけど、
やっぱり忘れてしまう。人間は忘れるようにできている。
忘れて未完成だから成長がある。そのために今ここに居る。
表層の感情や情報で刺激を受けて「気付き」を得て
また一つ成長する。そんな風にできてる。
だから結局はすべて大丈夫。そう考えると少し楽になって
肩の力が抜ける。
ここのところイラっと来ることが多かった。
毎朝のトレーニング中にネガティブ感情いっぱいになって
ぶつぶつ独り言をいう事もあった。
落胆とか憎しみとかも感じまくる。
そのあとに瞑想する。メッセージをもらう。
翌朝また別の出来事で同じことを繰り返す。
そんなんで良いと思います。
自分を否定することを辞めると
今よりもっと楽に生きられると思います。